造林始祖記念碑文訳補(平成4年再建立)
明治29年建立の碑は百年を経、風化激しく、漢文を和文にし再建する。

【造林始祖のあらまし】    
享保(1716年)、隠岐島中村元屋の玄琢さんは孫一に話しかけました。
「世に飢饉ということがある。 一度これに遭うと、父母妻子は食うに食
なく、路頭に立って食を乞い、…餓死に至ることもある。君はこの惨状
を免れる策を知っていますか」
孫一が答えました。「私は知りません。どうか教えて下さい。」

そこで玄琢は、「隠岐国百年の繁栄は、杉を植えるに勝るものはない。
子孫に大きな利益をと願うならば、早速に杉の造林を始めなさい。」
と教えました。
孫一が訊ねました。「杉が大きくなった時、売捌く方法がありますか」

玄琢は言います。「船で材木を他国に運べば、世間は広く買手はいくら
でもある。実際に植栽に手をつけることだ 大いにやり給え。」
孫一は海の向こうに広い世間があることに目が開けお礼を述べました。

孫一は学業が成った後、4人の仲間に事情をよく説明し 村民を誘導
しようと計りました。しかし布施の土地の状況は水田がなく、暮らしも
島いちの貧村でした。村民たちは30年も先を見こした計画に納得が
いかず却ってあざけり笑い 賛同する者は誰一人ありませんでした。

4人はこの風潮にも屈することなく大いに造林の方法を研究し、吉野杉
の種を求め 苗を育て、植樹を続け、また勧誘も怠りませんでした。

30年後、自分で植えた杉を初めて伐採したところ、その利を得ることは
巨大でありました。その有様を見聞きして、造林に従事する者が続出し
ついにそれが村内全部に及びました。

その財で船を造り、各地の港を廻り、布施の廻船業が栄えました。
集字1ヶ月、1ヶ月 延べ2ヶ月の力作です(1m×0.7m)  岩山哲川